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みがき帯鋼入門期

昭和29年 大激震の磨き帯鋼業界

昭和29年 前項でも述べたが磨き帯鋼業界は朝鮮戦争の休戦後に襲ってきた深刻な不況にいたる景気後退に合わせ、大手鉄鋼メーカーの新規参入により大激震に襲われていた。
そんな中でも特金は着々と独自の道を歩み続けた。
周は療養中に考えていた、施設の工夫改善と操業の合理的統一をするため昭和29年9月より鉄骨造建物116坪余りの増築をし、これに付随した設備の増設も申請した。即時建築の準備に着手する傍ら生産上の第1工程たる焼鈍施設に対しても数次にわたり改善を加えて新規設備をも含め金属加工用設備を充分にまかなうにたる焼鈍量の確保に努め増産に至った。周の体力も徐々に回復してきた。外出する時以外は丹前を常用し、掘りごたつや長火鉢の前に座りテレビを見るのが楽しみになった、テレビの放送は昭和28年から開始したが、白黒テレビはまだ非常に高価だった。お気に入りは大相撲であった。長火鉢の中では炭が白い灰のなかで赤く燃え、時には福井から届いた豆かき餅がこうばしく香り、やはり子供のころの思い出なのであろうか白く粉ふく干し柿が傍らにおかれていた。手術後はそこが周の書斎となり、いつも機械の図面や俳句、絵を描いていたものだった。しかし夜中にふと思いついて今から箱根に行くと周が一言いえば、皆飛び起きて30分で荷造りをするというように、家の中は年中ぴりぴりと緊張が走っていた。これは事務所や工場でも同じで、仕事には大変厳しかったから社長のステッキや下駄の音に皆耳をすませていたという。

設備を増強するためには社員の雇用が第一であった。特金はいつしか社員170名の会社になっていた。社員の給料は板橋一とうわさされるぐらい良く、当時の三種の神器といわれた電気洗濯機・冷蔵庫・掃除機を買い揃えることができた。白黒テレビはまだ高嶺の花だった。

昭和30年 神武景気到来

1955年(昭和30年)は昭和29年の反動ではじまった。デフレ政策により国際収支が黒字化し、金利が低下して投資ブームがおこり、これが30年上期から32年上期にかけての神武景気の幕開となった。
板橋区内の工業もそれまでの停滞状況を脱し、製品出荷額は前年に比して11.5%増加した。915に増えた工場は業種別にいうと医療理化学、写真、光学、時計などの精密工業が147工場で最多、次いで金属製品の102工場、機械機器の96工場、鉄鋼、非鉄の87工場、化学薬品の86工場であった。
工場の多くは都電の沿線に散らばり、旧板橋10丁目から戸田橋に向かって板橋区の工業集積地は広がっていった。荒川に向かう志村長後町、舟渡町付近には大工場が多く、都内有数の工業地帯を形成し、この年都電は志村坂上から志村橋まで延長した。

特金では前年の昭和29年12月の圧延工場増設後、原動機は113HP増加し、4丁目側の工場敷地面積は8683.5503㎡、建築面積5439.0798㎡に増加した。それは周の設備計画の一部であり、その後も一歩ずつ夢の実現に向けて会社の業績を上げていった。この年は中型7段圧延機一基を増設し、11月には資本金を2500万円に増資した。特金の組織も徐々に整いだしたので昭和30年頃からは積極的に新卒採用を開始した。

当時原材料はまだ熱間の黒皮材しか入手できなかったため、入荷すると2段圧延機でスキンパスし、洗浄でスケールを除去し、焼鈍行程へ入れた。次に圧延工程に入るがスケールの残り部分が有り、押し込まれて肌が痘痕になって製品にならなかった。これらを除去するため用途によって途中工程でY研(ワイヤー研磨機)や砂研を入れた。この工程は昭和40年代まで続いた。50年代に入ると全数表面処理(酸洗-研磨)された原材料が入手出来るようになったので洗浄工程は終了した。洗浄が中止になる少し前頃ベルト研削盤が導入され、Y研や砂研工程は姿を消した。最初の頃は、原材の品質が安定しなかったため製品によってはベルト研削を行っていたが60年代に入ってこの工程もなくなった。

昭和31年 家電三種の神器

日本経済は戦前の最高水準を上回るまでになり、もはや戦後ではないといわれるようになった。1956年(昭和31年)の民間設備投資は前年に比して140%にもなった。神武景気は家計の所得を増やし、耐久消費財ブームが発生した。三種の神器と言われる冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビをそろえる事が家族のあこがれであり、新しい生活の象徴となった。
一番先に普及したのは電気洗濯機であった。それまでの盥で洗濯板を使っての洗濯は重労働で、主婦は毎日山のような洗濯物と格闘しなければならなかった。それが電気洗濯機によって解放されたのである。初期の電気洗濯機は、洗濯物を洗うのにも濯ぐのにもいちいち絞り機にかけて絞るという、結構手のかかるものだったが、それでも手洗い洗濯から解放されたことで、主婦もやっと時間と労力に余裕が持てるようになり、社会の各分野に進出できるようになった。

1953年(昭和28年)から始まったテレビ放映に向けて、シャープは国産第1号の白黒テレビ(14インチ/175,000円)を発売した。当時は庶民には手が届かない価格であったので、この頃は「街頭テレビ時代」と呼ばれ、駅前などにテレビを設置しプロレスやプロ野球中継が人気を得たが、昭和30年代にはいると白黒テレビは10万円を切りはじめ、我が家のテレビを手に入れることは夢の夢というわけでもなくなり始めた。当時の公務員の初任給は8,600円であった。一方で、冷蔵庫についてはまとめ買いをするという習慣がなく、氷屋が氷を配達してくれたこともあって、購入順序としてはおそらく一番後まわしになったものと思われる。

特金では焼鈍工場裏の畑を整地して社員総出の大運動会を隔年ごとに開いてきた。昭和31年に第四圧延工場・洗浄工場・原材料倉庫がそこに建設されるまで運動会は続き、社員は家族と一緒に弁当をもって日本晴れの気持ち良い一日を走ったり転んだり大騒ぎをして楽しんだ。

周の増設計画は着々と実現していった。昭和31年8月30日、焼鈍工場の増設工事は完成し1703.48㎡拡張した。休む間もなく続けて圧延工場と洗浄工場、原材料倉庫の建設に取り掛かかかった。10月10日に完成した工場により1637.25㎡増床し、設備を移動し機械の配置換えをしながら中型7段圧延機をもう一基増設した。工場拡張にあわせて生産力増強のため採用を進め、特金は基礎を固めていった。

昭和32年 なべ底不況

昭和30年から昭和32年まで続いた神武景気は国際収支の悪化により急速に冷え込んだ。日銀が昭和32年の3月と5月の2度にわたって公定歩合を引き上げたほか、政府も財政投融資のくり延べ等を含めた強力な金融引き締め策をとったため、産業界は減益・減収、資金不足に陥り、操業短縮により在庫調整をおこなった。業種別では電力・陸運業などの一部を除き全面的に業績が低下、減配・無配になった企業が目立ち、中小企業の倒産が続出した。これがいわゆる「なべ底不況」である。なべ底不況の実態は、設備過剰による在庫の急増によってもたらされた内需不振だった。

前年度の工場建設に続けて大型焼鈍炉8基と大型7段圧延機1基を増設した特金にも、不況の波は重くのしかかり、資金不安から若い経営陣は浮き足立った。しかし周はこれまで幾度もの危機を乗り越えてきた経験から、この不況は長くは続かないと読み、自分の信じる道を突き進んだ。資本金は4千万円になっていた。特金の配当は株式会社化した昭和23年の1株2.5円を皮切りに徐々に増え、昭和31年は7割配当の1株35円を配当した。配当金はすべて積み立てて新株を買うと共に自分の預金を提供し、その資金を運転資金や設備投資にまわした。なんとしても特金を傾かせるわけにはいかなかった、周はいい製品を作って取引先や社員の喜ぶ顔がみたかった。不況の中であったが、夏には恒例の会社行事で、社員とその家族そろって江ノ島へ海水浴に行った。

昭和33年 極薄箔への挑戦と岩戸景気

1958年(昭和33年)7月から1961年(昭和36年)12月まで42ヶ月間続く好景気を岩戸景気という。ここから日本の高度成長期が始まり、経済成長率が10%前後に達するまでになった。重化学工業の技術革新の波が起こり、一社の民間企業の設備投資が、別の会社の設備投資を招き、「投資が投資を呼ぶ」といわれた。
なべ底不況の景気後退で停滞的傾向の強まった石炭や海運産業等と、景気後退をほとんど受けなかった電気機械・精密機械・自動車など、あるいは受けたが回復の早かったいわゆる成長産業である鉄鋼・化学・石油精製等の装置産業との格差が目立ってきた。これは基本的には技術革新による産業構造の変革期であった。

昭和32年当時、精密産業の使用材料、特に極薄安全剃刀替刃、写真機シャッター、警報器振動板、イヤホーン振動板、シックネスゲージ、自動車エンジンパッキン、腕時計文字盤、濾過器等の箔に要求される品質は極めてシビアであって、製品肌、平面度および厚さ精度において、従来の一般品とは異なり国内での製作は不可能で、すべて舶来品に頼っていた。特に製品肌については、圧延材料の表面上において一点の疵のあることも許されず、しかもその疵は熟練した検査員によって、はじめて肉眼で発見できる程度まで要求されていた。また平面度に対しても、要求は甚だ厳しくヒズミ、小じわの存在は少しも許されない厳しさであった。

しかし、輸入材料に依存する産業は成長を阻害され困惑の状況下にあった、その理由は①輸入材の納期が希望日を守れず納期が不確定である、②大量発注せねば引き受けてくれない、③輸入梱包を開梱してみれば損傷のものもあり確実性がない、④大量発注して長期保管すると錆の発生で使用不可能となる、⑤輸入商社とクレームの責任所在について過去再三再四トラブルがあり満足な処置が得られていない等、生産合理化の時代にもかかわらず不利な条件を余儀なくされるため、精密産業界は国内での生産を強く望んでいた。しかし、年間需要総数量が五トンでは企業として採算がとれないばかりか、当時の日本の冷間圧延技術では思いもよらぬ難事であり、理論的にも不可能な要求とされていたが、時計業界の技術打合せの席上において極薄高級帯鋼の製造を宣言し、3年の猶予を乞うた。周はすぐさま精密五段冷間圧延機の設計開発に取り組んだ。すでに既設の4段圧延機で高級箔の圧延データを集積しはじめており、昭和31年には業界に先駆けて厚さ10μの極薄帯鋼の部分試作を極秘のうちに成功させていた。
精密五段圧延機は昭和33年12月に稼動開始したが、完全な高級箔を生産するにはまだまだ歳月が必要であった。昭和32年度の生産数量は1,647t、売上高417,312千円であった、昭和33年に仕上二段圧延機も増設、11月には資本金5000万円に増資し、この年の生産数量は1,772t、売上高483,080千円となった。
1958年(昭和33年)4月1日『芽立』が創刊された。

昭和34年 岩戸景気

岩戸景気は国民消費生活の向上をもたらした。板橋区の各工場も技術革新の波に乗り拡張が盛んに行われ、なかには敷地が手狭になり隣接の埼玉県などに移転をして生産増強を図る企業もあった板橋区の鉄鋼業の出荷額は昭和33年には81億3,000万円であったものが、34年には107億3,000万円となり、35年には193億9,000万円と大幅増加する。
特金は前年度1,772tであった生産高の倍増計画を進めるため、圧延工場、原材料倉庫、洗浄工場を鉄骨構造にて増築し、圧延機を始め切断機やレベラーシャーラインも増設した。同時に加工材の大束化・広幅化用に機械改造が行われ、これらを製作するために必要な大型の加工機械プレーナー、旋盤、ラジアルボール盤等が導入された。機械工も多数採用され、それからは塑性加工機械の新製、改造の殆どが周の念願どおり内製化されるようになった。1959年(昭和34年)には新卒、中途で30人を超える採用をおこなった。その結果、昭和34年度の生産高は2638tと前年の1.49倍に増え、売上高は693,169千円(前年比143.5%)となった。

昭和35年5月15日特殊金属工業株式会社創業20周年記念式典が板橋区民会館に於いて全従業員、家族、来賓多数参列の内に盛大に行われた。

谷口 周 社長の挨拶(原文のまま)
茲に当社創立20周年を迎え本日些か祝賀の式典を催しましたところ来賓の皆様方には公私共にご繁忙中にも拘らず親しくご臨席賜りました事は真に我社の光栄の極みでありまして私始め一同から衷心より厚く御礼申し上げます。又全従業員諸君ならびにご家族一同の健康なる笑顔に接し、今日の喜びを共に迎え得ましたことは此の上もなき欣快に存ずる次第で御座います、更に私が圧延事業に関与してから丁度満四十五年目にも相当致しますので一層感慨深いものがあります。回顧致しますれば四十五年前頃当時は伸銅圧延の興隆期でありまして到底鉄やハガネ等の冷間圧延等は誰しも及ばない全く謎の時代でありましたが第一次世界大戦後漸く我が国内にも極く一部の人達の関心を引くようになりました。私が其の研究のため伸銅界から招かれて関与したのが国内の草分けとなって以来今日につながる誠に険しい開拓へのはるかなる道程となったわけであります。其の研究作業の目的は当時輸入されて居た自転車各部の原材料である磨帯鋼の国内生産でありましたが是には幾多の失敗を重ね甚大な障害に遭遇しつつ全員の知能を結集して創意工夫を行い一歩一歩と体験を積み重ねて努力しましたが何しろ長期間の嵩れる創業経費のために経済上の困難が極限に達し全員は言語に絶する貧困になる生活とも闘わなければならない誠に暗黒の数年を堪えて来たのでありました。
併し大震災後に至って高砂鐵工の経済力と相俟って技術の進歩に依り、さしもの大試練も遂に磨帯鋼の輝かしい黄金時代を将来することが出来ると共に完全に輸入を防遏し得たのであります。さりながら焼入れをするハガネの特殊磨帯鋼は依然として輸入に独占されていたのでこの至極むずかしいハガネの生産には再び血のにじむ努力を始めまして遂次経験と自信を深めつつ数年にして我社の今日の基礎技術が次第に上達してきたのであります。

以上の如き長期の苦難を辿りまして遂に昭和十五年五月現在地に創業の第一歩を踏み出しましたが折りしも支那事変はいよいよ拡大し続いて第二次大戦勃発となり、その果は敗戦の悲運を招来し経済界は未曾有の危機に瀕し、物資や食料は極度に欠乏して生存を脅かし人心は混迷と失意のどん底に喘いで居りました様な重なる悪条件下に於ける創業以来の約十年間の運営の困難さは到底筆舌に尽くし難く、私の闘志と活動は決して人後に恥じないと自負と成果を記録したのであります。
当社は創業以来、誠実と熱意と品格の向上を厳格なる社のモットーといたしまして始終一環是を守り通して参りました。この真精神こそ永劫不変の我社の方針であり、是に依り今日の発展を達成し更に前途の進歩と全員の福祉の向上とを顕現し得るものと確信致して居ます。
斯くして当社製品の順調なる出現に依りましてハガネ磨帯鋼は完全に輸入を根絶せしめたばかりでなく近年は逐次海外へも進出しつつある現状で、近く貿易の自由化は今や世界の起勢でありますので更に技術を研鑽し品質精度の向上を図り且つ生産性を高めて以って国際市場に飛躍いたすべく多いなる抱負をいだいて居る次第であります。
扱て事業は人なりと云われる如く今日の社業発展の蔭には従業員諸君が私の意を対し常に社是を固く守りよく協調してくれた功績を顕彰して甚大なる所為を表すために本日茲に賞賛の式典を相催したわけであります。諸君が今日まで熱誠なる努力には万腔敬意を表すると共に今後更に周知を集め全員協力して社業の発展と各人の成長繁栄を相計り以って産業人としての真面目を高揚されんことを心から切望しまして来るべき二十五周年記念には是非とも今日に倍加して盛大なる式典を催し得ますように大いに期待致しまして私の本日の挨拶に代える次第で御座います。

11月の増資で特金の資本金は1億円となった。これは、高率配当による積立金に預金を加えて毎年増資を進めてきた結果で、増資資金を大型切断機一基およびレベラーシャーライン一基の設備投資にあてた。
併せて11月1日特金のロゴマークが発表された。デザインは磨帯鋼の圧延作業を表し、上下のロールの間を材料が往復していることを示している。
此の年、池田勇人内閣が誕生し「国民所得倍増計画」を打ち出して日本は高度経済成長への道を歩み出した。

昭和35年 ステンレス鋼板JIS取得の取り組み

昭和35年は安保闘争真っただ中、カラーテレビ放送が始まった年でもあった。
特金では昭和26年に冷間圧延鋼板及び鋼板のJIS G3141を、29年にはみがき特殊鋼帯JIS G3311を取得した。時代の要求は量から品質へと変わりつつあり、残るステンレス鋼板及び鋼帯のJIS取得へ向けての準備中で、社内規格、作業標準の見直し、作業指導書の作成が夏休み返上で行われていた。大卒新卒も作業標準を作るため、圧延機などの設備に貼り付き、作業者の動きを逐一記録した。
当時、圧延潤滑油はスピンドル油(60#)が主体であったが毎年梅雨時になると大量の錆が発生し大問題となっていた、圧延性、焼鈍性、防錆性に優れた圧延潤滑油の開発が最重要課題であった。
前年に建てられた圧延工場、原材料倉庫、洗浄工場は綺麗で広々しており、機械設備の据付を待っていた。此の年は大型切断機1基とレベラーシャーライン一基と大隈研磨盤が設置された。

特金は大学へ新卒募集をだした、世の中の大卒初任給は12,000円を超えるようになっていた。
各大学から来た12、13人の応募者が事務所で筆記試験を受け、その何日か後に事務所玄関横の角テーブル応接室で面接をした。
当時の独身者用の寮は第一武蔵野荘、第二武蔵野荘、横山荘、戸田荘、吉崎荘、事務所内寮と特金の周辺にいくつか分散してあった。当時は娯楽が少なかったので志村坂上銀座、常盤台SB通り、赤羽などへ若者同士連れ合って自転車やバスでしばしば遊びに出かけていった。しかし独身者の一番手軽な遊びは一升瓶を片手に、洗面器を煙草入れ代わりにして、寮に集まっては一晩中マージャン卓を囲むことだった。会社からはよく怒られたが、徹夜で遊んでも仕事を休んだりすることはだれも絶対にしなかった。板橋で一番と云われた給与は百円札が詰まった給料袋が立つほどであったので、そんな若者も結婚して家族もちともなれば、近くに家を購入することができた。

昭和36年 朝霞キャンプ土地払下申請

特金は薄物圧延技術のノウハウを積み重ね、レーザーブレードの輸出に貢献した輸出優良企業として昭和35年通産省より表彰を受けた。増設した工場へは設備の移設が順次行われ、洗浄設備等の据付工事も急ピッチで進んでいた。電気配線や水道配管も含めて工事はすべて工作係の手で実施された。度重なる増築により前野町の工場敷地は建物で満杯になった。周は今後の特金の成長を見越して朝霞キャンプの払い下げのうわさを聞くやいなや、30,000坪の土地払下請願書を大蔵大臣宛に提出した。米軍朝霞キャンプはキャンプドレイクと呼ばれ、埼玉県和光市、同県朝霞市、同県新座市、東京都練馬区にまたがるノースとサウスの2つのエリアで構成され、基地面積は約31.7平方キロあった。東武東上線朝霞駅近くの旧陸軍被服廠跡地に1952年(昭和27年)占領軍が米軍極東指令部を設置しノースキャンプとした。

朝霞キャンプ土地払下請願書
昭和36年3月

当社は去る昭和十五年現在地に於いて発条、帯鋸、玩具用ゼンマイ用の磨特殊帯鋼の製造工場として創業、極めて精度の高い製品を生産多大の好評を博し逐年増資を行い、現在資本金一億円にまで上げ尚本年中には更に倍額増資を行う予定であります。
当社の最近の生産は主として安全剃刀替刃材、時計ゼンマイ材、写真機用シャッター部品材、ラジオ、テレビ部品材、通信機部品材、精密機械部品材が大部分にして、その作業内容は厚み3m/m位の素材より十数工程を経て最低0.01m/mより0.3m/m程度に伸長圧延巾100m/mより50m/m位が殆ど大半を占め常に防塵、防湿には勤めて留意しなければならない、所謂作業環境に支配される点が多いのであります。
昨今に於いては生産量の3割近くは輸出に向けられて居りその需要も逐月増加の一途を辿りつつある現況にあり今後益々な以外共に需要が激増すると共に高精度の必要性を痛感又其の作業内容に至っては光学メーカーに匹敵する程の微妙なる技量を備えねばならぬ今日、況して従業員増加に伴い宿舎、食堂等の福利厚生施設の拡充は必須欠くべからざる条件であり且つ同業者僅少のため生産能力の最高を発揮しても納期完納は果たせずこれ等の困窮事情を速やかに打開せんには先ず以って工場用敷地買収が先決問題であり、これが実現の暁には超薄物の高精度製品の工場として需要に応えて生産体制を整え自由貿易に対処すべく製品仕上工場、検査工場、研究所、製品倉庫を建設し併せて従業員の福利厚生施設をなし以って円滑なる運行の下に生産性の向上を図り微力乍らも産業発展の一端に寄与致度茲に朝霞キャンプが接収解除の節は30,000坪の払下げを懇願申上ぐる次第で御座います。

役員 6名、従業員 226名
生産能力 年産 4500t
敷地面積     6,393坪
建物延べ床面積  3,111坪54

新設工場仕様書
本請願書御許可相受けました節は左記の通り計画致して居りますので御参考までに仕様書添付致して置きます。
土地  三万坪 周囲は万年塀高さ八尺を以って囲む
建物  七六○○坪

以上のような仕様であったが、残念ながら、周のこの壮大な請願は実現しなかった。
朝霞キャンプの返還は昭和48年(1973年)日米安全保障協議委員における施設返還合意を待たなければならなかった。その後基地の返還は徐々に進み、昭和61年(1986年)には送信用アンテナ敷地を残して全敷地が返還された。ノースキャンプ跡地には朝霞市民会館、朝霞市立図書館、朝霞中央公園野球場、青葉台公園、小中学校や高等学校などが建てられた。
サウスキャンプ跡地の和光市内跡地には、理化学研究所、司法研修所、裁判所職員総合研修所、国立保健医療学院、自衛隊官舎、西大和団地、諏訪原団地、南大和団地、和光樹林公園など公の施設や公団住宅、大型公園、小中学校、高等学校などが建設されている。
朝霞市内跡地には陸上自衛隊朝霞駐屯地、労働大学校、税務大学校、警察庁機動隊宿舎、中学校、高等学校、武蔵大学グラウンドなどが建設されている。 新座市内跡地は小学校、高等学校、市営墓地などとして利用されている。東京都練馬区内には東京都立大泉学園高等学校・東京都立大泉養護学校・大泉中央公園や練馬区立の小中学校として利用されている。

昭和36年 所得倍増計画

所得倍増計画とは池田内閣の下で策定された長期経済計画のことで、立案者は経済学者の下村治氏であった。昭和36年からの10年間に実質国民所得(国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げ、池田首相は『10年間で月給が2倍になる』と分りやすい説明を行なって国民に強くアピールした。この計画は、道路、鉄道、工業用地など産業基盤の公共投資を軸にし、社会福祉の増進や農業保護にも一定の予算を振り向けることにより、年率7.2%の経済成長を想定していたが、計画期間の36年から45年の間の実績は10.9%と計画を上回った。国民1人当りの消費支出は10年で2.3倍になり、「東洋の奇蹟」と呼ばれるようになる。
アメリカではジョン・F・ケネディ大統領が就任し、4月にはソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、世界初の有人衛星船ボストーク1号で地球を1時間半で一周し、帰還して述べた言葉「地球は青かった」は有名である。

周も60歳を越えて、水泳やマラソンこそしなくなったが、若い頃からの訓練の賜で登山、釣り、狩猟、スキー、ゴルフと一年を通じて様々なスポーツを楽しんだ。冬は上越や赤倉でのスキー、福井の山中での鴨や雉の猟、夏は奥日光や箱根の千石原、軽井沢に一ヶ月以上の避暑に出かけ釣りやゴルフを楽しみ、合間に北アルプス、白山、富士山等に登った。また四季折々の風物に接する感動を俳句、和歌に読み、雑文を記し、俳画を描き、写真撮影、囲碁、茶の湯、盆栽、水石を嗜んだ。なかでも若い頃から心ときめかせ続けてきた自動車への尽きせぬ愛着はさらに増していった。昭和36年度になると、人員の確保も一段落したので新規採用数は減少した。

昭和37年 キューバ危機

1962年(昭和37年)米ソ関係が依然厳しい対立状態の続くなか、10月アメリカ合衆国U-2偵察機が、キューバにアメリカ本土を射程内とするソビエト連邦製中距離弾道ミサイルが設置されていることを確認した。即時ケネディ大統領はキューバ周辺の海上封鎖をし、ソ連船への臨検を行うことでソ連船のキューバ入港を阻止することを表明した。全面核戦争の可能性が報道され、第3次世界大戦がいまにも勃発するのではないかという恐怖に全世界がさらされることになった。危機は回避されたが、この緊張の13日間をキューバ危機と呼び、その後これを教訓として2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用のホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。東京都の推定人口は1,000万人を突破した。

特金の生産は順調に伸び、この年、中速四段圧延機一基を増設した。
この頃になると集団入社した新卒者の定着がだんだん悪くなってきた。地方からひとり出てきての寂しさもあったと思われる。
社内には野球部、写真部、卓球部、文化部、庭球部、スキー・スケート部、釣部、観劇部がつくられ、親睦会もしばしば開かれた。釣部では3ヶ月に1回は釣り会が行われ釣を楽しんだ。県人会には有明会、下野会、福井県人会、千葉県人会、東北県人会があり年1回の親睦会が開かれた。誕生会は会社主催で毎月あり、ひつじ会という未年の社員の会も、半年に1回のペースで開かれていた。
スキー・スケート同好会は冬季になると土曜の夕方チャーターバスをしたてては軽井沢でスケート組を降ろし、菅平のスキー場へと乗り込んだ。帰りはその逆のコースでスケート組を拾って帰ってきた。これらの同好会は40年代半ば頃まで続いたが、だんだん生産が愈々忙しくなり、参加者も減り自然解消していった。
『芽立』に寄せられた歌に当時の特金の様子がうかがえる。

特金数え歌  田村喜一郎

一つとせ 人に言われぬ苦労が御座る 縁の下だよ洗浄部
二つとせ 古い機械も新しい技術 特金の花形圧延部
三つとせ 皆の使う機械や設備 マカシトケーこの工作に
四つとせ 良い品安く無駄なく使う 倉庫係の腕の良さ
五つとせ いつも変わらぬ鈍しの研究 派手じゃないけど焼鈍部
六つとせ 無理の無い様ムラの無い様 流す材料工程課
七つとせ 慣れた手付で磨いたロール(材料) 肌はピカピカこの研磨
八つとせ やり繰り上手の電気屋さんよ 少ない電気で大きな成果
九つとせ 心を込めた皆の製品 検査切断念入りに
十とせ  共に考え手を取り合って ガッチリ進もう特殊金属

昭和38年 七色の川

1963年(昭和38年)11月22日に、ケネディ大統領が遊説先のテキサス州ダラスの市内をオープンカーでのパレード中に狙撃され、暗殺された。まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられその映像に人々は衝撃をうけた。
板橋区内を流れる川は昭和30年以降、工場の流す廃液によって、赤、黄、緑、紫と虹のように毎日変わり七色の川と呼ばれた。出井川(逆川)、蓮根川などの河川は台地から志村の低地を流れた新河岸川に注いでおり、その流域には、染料や化学薬品を製造する工場が多く、色ばかりかなんともいえない悪臭に地域住民は日々なやまされた。エネルギーが重油に転換され生産量が拡大していく中で悪臭、有毒ガス、二酸化硫黄による大気汚染が深刻な公害問題となっていた。

特金では鉄筋鉄骨研究部建物を新築し最新の検査設備を充実して研究開発、品質向上を目指した。あわせて鉄骨ステンレス工場を増築し中速四段圧延機二基を増設した。
来年の東京オリンピックを控えての需要に呼応して製造は忙しく、25名の採用がおこなわれた。

昭和39年 東京オリンピック

1964年(昭和39年)10月東海道新幹線・東京~新大阪が開業し、東京~大阪の所要時間6時間半が4時間に短縮された。同じ月に東京オリンピックが開催された。開催にともない交通網の整備や競技施設が必要となり、東海道新幹線や首都高速道路などのインフラや国立競技場、日本武道館などの競技施設が整備され建設需要が高まった。オリンピックを見るためにテレビを購入したり、オリンピックを見に行くことなども影響して好景気となった、これをオリンピック景気という。
しかし、オリンピックが終わると建設需要やテレビなどの需要も低迷し、証券不況が到来した。
特金では、鉄骨鉄筋二階建の新工場が建築された。工場の1階1422.66㎡は工作、切断、管理事務所、検査・梱包作業用、2階581.69㎡は剃刀切断と耳すり作業用とし、2階への材料運搬用にエレベーターを設置した。次いで高速六段圧延機一基とステンレス光輝焼鈍炉一基の増設を行った。
地方から新人を採用するためにはどうしても独身寮が必要だった。そこで鉄骨鉄筋三階建の独身寮を新築した。ワンフロア288㎡の3階建で1階は社員食堂と管理人室、2、3階が8畳から12畳の居室に分かれていた。この年は27名ほどの新規採用だった。
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